楢橋国武の語り継ぐ出版労働運動史

3.出版労連時代
3.1 労協から労連へ(1)---1971年

◎小共闘の発足
 出版労連の運動が、地協・小共闘を車の両輪としてすすめられたことは誰でも知っていることだが、しかし、それは簡単にできたものではなかった。
 労懇の頃から、運動の単位の場として、地域や規模や業種別など、いろいろと試行錯誤を重ねながら、運動の中でつくられたものであったといえよう。
 地協の確立は、その地域の中心組合と地協委員の長い間の地味な献身的な努力の積み重ねのたまものであったといえよう。
  小共闘は、その地協のうえに労協から労連へという単産機能の強化の一環として、その内実づくりとして企業内組合から一回り大きなグループ組合へ、企業意識を乗り越える必要性から考えられたもので、つまり 労協傘下の100余の組合を10余のグループにまとめて、運動の単位の場としたいというものであった。
 そのきっかけになったのは「一つの組合のように」というスローガンをかかげて、とくに68年春闘からめざましい団結と成果をかちとった教科書労組の先進的な運動と教訓を手本にしたものであった。
 小共闘と地協が文字通り車の両輪として大活動したのは、1971年の春闘からであったと思う。
 記録では、1月23日の中央委員会に提起され、72年の春闘パンフに、次の12の小共闘名が記されている。ヌ大手、ネ小零細、ノ教科書、ハ教材・学参、ヒ理工書、フ医書、ヘ児童書、ホ社会科学書、マ一般書、ミ実用書、ム取次、メ小売・洋販。
 当時私は、小共闘の発足については、教科書共闘と小零細共闘と大手共闘に対しては特別の思いと考えをもっていた。教科書共闘については、労懇時代から一貫して教科書問題を担っており、教科書問題は出版労 協のバックボーンであると思っていた。また、小零細共闘は、小零細企業の出版活動を守ることが、その労働条件を含めて出版労協の役割であり、責任であると考えていたからである。そして、それは言論・出版の 自由や、平和や民主主義の根幹につながるものと考えていたからであった。
 そして大手共闘に対しては、とくに単産運営の安定をはかる上から、労連本部と大手組合の意志疎通を大切に考えていた。紙パ労連や全印総連などの分裂を見てきた私は、とくにこのことを大事にした。また、労 連の方針や考え方を大手組合に十分に理解してもらって、出版界に対しての幅広い共通認識の基盤をつくりたいと考えたのであった。
 そして私は、その土台の上に、大手共闘の協力を得ながら書協、雑協、取協、日書連など出版関連経営者団体に対して、チェック能力や提言能力や交渉能力を身につけたいとひそかに思っていたのであった。

◎みのべ都知事の再選
 劇的なみのべ都政が発足して、いつの間にか4年になった。この間、ある争議団の決起集会にみのべ都知事からの激励のメッセージが読み上げられたり、またメーデーや安保反対や沖縄返還などの大集会で挨拶されるみのべさんの姿をよく見ることができた。こうしたことは、保守党知事のときには考えられなかった。
 革新都知事が、私たちにとってどんなに大きな意味を持ち、どんなに力強いことであったことか。だから私たちはみのべ都知事の再選を支持してがんばった。
 そして、4月11日の選挙では、自民候補に168万票の大差で圧勝した。

◎忘れられないできごと
 この年、私にとって忘れられないできごとがいくつかあるが、その一つは、主婦と生活労組が、新旧労組を統一して改めて労協加盟が行われたことである。3月3日付で、代表者大野静毅委員長、書記長は現労連 委員長の今井一雄氏で、組合員数270名であった。
 いま一つ、旺文社労組の加盟も忘れられない。かつて私は、労懇時代から旺文社の労組結成の相談を2回ほどうけたことがあったが、いずれも成功しなかった。
 その旺文社が組合結成して、5月31日に初めて公然化したのだが、私のノートによると、朝8時ごろから社前ビラ入れ、会社への結成通告、社前集会、臨時大会、夜9時半からの団交などが記されている。
 またこの年には、マスコミ共闘とソ連文化労組との国際交流が行われ、訪ソ団の中に講談社労組の岩崎仁氏が労協代表として参加したことを記憶している。

◎新しい国民運動
 11月6日、社会文化会館で、総評、マスコミ共闘、日教組、国民文化会議の四者共催による「マスコミと教育を考える国民集会」が行われた。従来マスコミ共闘が主催してきた「マスコミ批判国民集会」を改組発展させたものであった。
 また、同日夜、自治労会館で、総評、中立労連、日教組、日高教、マスコミ共闘など16幹事団体によって「民主教育をすすめる国民連合」が結成発足した。そして、12月7日・8日には「民主教育をすすめる国民大集会」が開かれた。
 それは教育の民主化運動が、マスコミ批判とともに全国的な国民的運動への高まりを感じさせるものであったといえよう。そして私は、72年は激動の年になるだろうことを予感させられたのであった。

(c)1999年 Narahashi