◎第19回臨時大会
そのころ、出版労連の中には、67年ごろから、中国の影響や学生運動や70年安保前段の弾圧や合理化攻撃から、組織の中に意見の違いや路線の違いが起こり、不団結な面がいろいろ現れていた。
しかしそれが、69年6月29日、70年安保の正念場であるべき出版労協第
19回臨時大会が、出版反戦などという労働者グループの暴力行為によって、妨害され、流会になるという事態が起こったことは、私には信じられないような残念なできごとであり、許せないことであった。
出版労協第20回定期大会報告号(10月7日)の中で、私は暴力問題について、その責任の所在と委員長としての見解を表明しているが、おそらく生涯決して忘れられないだろうと思う。しかし、この事件によって、労協傘下の組合はあらためて「出版労協は守るに値する組織か?」という問いに対して、真剣に考えざるをえなくなったともいえよう。
この不団結現象は、出版労協だけではなかった。マスコミ各単産にも、他の団体にもあらわれていた。激動の時代での仕方のないことであり、あるいは当然なことだったともいえるかもしれない。が、出版労協の
運動は、その後もいろいろな面で影響をうけつづけることになっていった。
68年に発足した“組織整備委員会”は、2年間の討議を経て課題である労連化への答申を行い、出版労協はそれを「規約改正案」にし、9月28日第21回定期大会の議題として“可及的すみやかに労連化を達成しよう”という方針を決定した。が、その道はなお遠かったといえよう。
◎出版妨害問題
そのころ、出版界では、「日本ブック・クラブ」の発足や、外資系ブック・クラブの上陸などで揺れていた。そして、公明党、創価学会による藤原弘達著『創価学会を斬る』や、内藤国夫著『公明党の素顔』に対
する大がかりな出版妨害事件が起こって、大きな問題となった。
もちろん出版労協もマスコミ共闘も“反対・抗議声明”を行った。そして、この問題を重視した多くの学者・文化人、マスコミ関係者などによる「言論・出版の自由にかんする懇談会」が発足し、70年2月3日文京公会堂で、3000人を超える抗議の大集会がもたれた。私もこの集会に参加して、“反対意見”を表明したが、忘れられない想い出の一つになっている。
◎家永裁判勝利判決
7月17日午前10時におこなわれた、家永教科書裁判の第一審判決(民事二部)の杉本良吉裁判長は、家永教授の訴えをほぼ全面的に認める判決を下した。
出版労協の教科書闘争の歴史の中で、最大の励ましとなったうれしいできごとであったといえよう。私はタクシーの中で、家永さんの勝利判決のニュースを聞いたが、瞬間、胸がいっぱいになった。と同時に、仲
間の顔が浮かんできた。三省堂の久司、今井、角田、学図の植山、清水、大日本図書の近藤、岩波の山北さんなどつぎつぎ浮かんできて、頭の中が仲間の顔でいっぱいになってしまった。
それから、家永先生から訴訟をおこすという話をうけて、“国家権力との長期のきびしいたたかいになるだろう”と、中執会議で覚悟を決めたときのことを想い起こしたりした。
いま振り返ってみても、もし杉本判決の勝利がなかったら、教科書のたたかいの今日があっただろうかと思われるほど、私にとっては、大きな励ましであり支えであり、ありがたいできごとだったといえよう。そ
して、“教科書”のたたかいは、いまもなお、日本の平和や民主化の根源的な、最も大切な課題でありつづけているといえないであろうか。
◎光文社労組の争議
光文社労組と光文社記者労組は「神吉体制打破・6万円賃上げ要求」をかかげて、突然70年4月16日から無期限スト、職場占拠に入った。以降76年11月23日解決協定調印、77年3月1日就労日までの7年間、光文社争議は行われた。
いまになっても、光文社争議にはわからない面があって理解に苦しむのだが、そのころの講談社と光文社の関係は、光文社労組が言っているようなことではなかったし、また講談社労組と光文社労組との関係も、
講談社労組は労協結成から一貫して労協主流の中にあったが、光文社労組は、あまり労協の運動には参加していなかったという違いがあった。そのことが、労協方針や私たちには当然と思われる共闘会議を拒否する
という路線の違いとなったように思われてならない。
私が光文社争議で心がけたことは、その運営については労協中執の総意に従うことと、講談社労組の総意を大切にするということであった。しかし、光文社争議は、私にとって苦悩に満ちた年月であったことに違
いはない。講談社労組の当時の幹部の人々、野村浩、島田義夫、藤森満、岩崎仁、江口拓、浜田博信、広田義朗、田所宏之の諸氏、またこの年中執に選出され、一緒に苦労してくれた中島宏氏など、数えきれぬほどの方々にささえていただいたことを感謝をこめて記しておきたい。
1970年という年は、いろいろなできごとがあった。そして、なぜか私の中には、日米安保と大動員された大阪万博、そして三島由起夫の割腹自殺が、強烈な印象を残して70年は幕をおろしたのであった。
(c)1999年 Narahashi