楢橋国武の語り継ぐ出版労働運動史

2.出版労協時代
2.11 労働運動冬の時代(1)

◎1・26横田大集会
 水爆搭載機の横田基地配置や、原子力潜水艦の横須賀寄港や、日韓会談など新年早々から池田内閣によって平和をおびやかす日米新安保体制が強引におしすすめられている事態に対して、1964年1月7日の労協機関紙に私は、年頭あいさつの中で「来る1月26日には、水爆と爆音反対!F105D配備阻止、平和と生活を守る横田大集会が行われます。
 私も中立労組を代表してこの集会の呼びかけ人に名をつらねています。この大集会の成否は本年のきびしい情勢と春闘をきりひらいていく上できわめて重大な意味を持っています。」と訴えている。この集会は、横田基地近くの広い川原で行われ、メーデーのような大集会となった。そして、私の日記には私も議長団の一人となり、議長団席は大勢であったが、阿部行蔵氏や高橋愼一氏などと一緒に偶然共産党の野坂参三議長や谷口議員ととなりあわせとなり、いっぱい写真をと られたことと、閉会のあいさつをさせられたことが記されている。司会は金子れいがく氏であった。
 またこの集会の写真を主婦の友のプロのカメラマンがアルバムにまとめて労協本部にとどけてくれたことと、その写真集を、その直後のアジア・アフリカ連帯の交流で来日された中国代表団の歓迎パーティの席で、趙安博氏に贈ったことを私は記憶している。
 すでにその頃は、日本の反安保闘争や平和運動は国際的な関心と評価を得ていたといえよう。
 こうした情勢の中で、1月28日には青少年条例反対連絡会議が発足し、また、日本の労働運動路線に大きな影響を与えることになった公労協の春闘4・17スト中止問題が起こったり、新暴力法案が国会で成立したり、原水禁平和運動が、原水協と原水禁の俗に言われた共産党系と社会党系に分裂して行われたりというようにきびしい状況がつづいていった。
 日米新安保成立後の流れの中で、日本の労働運動はきびしい冬の時代がつづいていたといえよう。とくにマスコミ単産への攻撃はものすごいものであった。

◎第1回出版青年集会
 “ゆたかな青春と美しい未来ををきずこう”という呼びかけによる第1回出版青年集会がこの年の5月17日、神保町の麺業会館で行われた。
 これは冬の時代を乗り切るために、青年や婦人たちのエネルギーを必要とした労協本部の組織強化活性化策の一つでもあったといえよう。
  当日は“文化スポーツ、マスコミ、平和、生活”の四分科会に分かれて討議したが、私は各単組のワクをこえて若者たちが、出版労協という広場に結集して単産の運動の新しい推進力になってくれることに大きな期待をかけた。単組ではなく、出版労協の新しい活動家づくりの場として考えたわけだが、それは成功したといえるようにおもう。そこから何人もの中執が生まれたからである。

◎第1回出版婦人集会
 青年集会につづいて、第一回出版婦人集会も、5月21日に講談社六階講堂で123名を集めて行われた。
 婦人会議には、労懇時代からの運動のつみ重ねがあり、第1回から地に足のついた討論が行われ、それこそ身の回りの問題から政治問題までにわたって、実感と主体性に裏打ちされた立派な決議がまとめられて大成功であった。
 討論は8分散会で、自己紹介から始められたが、私の参加した所では、講談社労組の津久井さんがしっかりした司会ぶりで、とてもうれしかったことを覚えている。そして出版婦人会議には、新鮮な感性の持主や、ベテラン、新人など多彩な才能の人たちが多いことが強く印象に残った。

◇青少年健全育成条例
 「青少年保護育成条例を阻止するための連絡会議」を結成して、革新政党やマスコミ共闘、文化人などとともに全力をあげてたたかってきた青少年条例は7月27日、都議会で自民党、公明党によって強行採決され、可決されてしまった。しかし、このたたかいは出版労協として、教科書闘争と質を同じくする問題として位置づけ、せいいっぱい たたかった運動として私の心にいまも残っている。そして最近のコミック問題等にみられるように、いまもなおつづいているともいえよう。
  当時の出版労協責任者は橋本進副委員長であった。公明党の元竹入委員長もその当時都議の一人であったと記憶している。

◇忘れられない大会
 9月26日、27日の二日間熱海で行われた、第10回定期大会は私にとって忘れられない大会であった。
 それは出版労協にとって、かつてなく組織内に意見の違いや運動の混乱を経験した年であり、それを大会の中で真剣な討議によって克服することの出来た大会となったからであった。
 4・17スト中止問題は、私には大きなショックであったが、出版労協には大きな混乱はもたらさなかった。が、しかしこの問題の教訓として私は委員長として、その後の運動の基調に他組織への批判は慎重にすることと、つねに革新勢力の共闘強化と統一への努力を心がけたということができると思っている。

(c)1999年 Narahashi