楢橋国武の語り継ぐ出版労働運動史

2.出版労協時代
2.9 1963年という年(1)

◎労協事務所の推移
 出版労協結成時は、岩波労組事務所の同居間借りであった。1959年2月に英通、主婦と生活労組の大争議が起り、それが60年安保闘争と結びついて大きな盛り上がりをみせた。その主婦と生活の争議はその年の年末に一応の解決をみたが、その頃から、出版労協の活動に対して、あるすじから岩波事務所がねらわれているという噂さや情報があり、やむなく労協事務所は岩波から出なければならなくなった。
それで、とりあえず講談社の組合事務所に岩波と同じように同居間借りということになった。会社と話した記憶はないから、一方的に、緊急避難的な措置ということで、委員長の出身組合の講談社へということになったようにおもわれる。
 当時、書記は江川巴江さんだけで、その江川さんは講談社の組合が会議のときには、争議中の英通へ行って事務をとったり、荷物の置いてある岩波事務所と講談社と英通をかけ持ちで活躍していたわけで、いま思うと全く申し訳ないほどの苦労をかけていた。
 やがて会社からは「出てほしい」という話があり、私の方は「出たくても行き場所がないので、行く先を見つけてもらえば出ます」という話となった。
 そして、会社から講談社の近くでの話もあったが、私は出版社の多い神保町辺を強く希望した。その結果、1960年の11月、神保町2の2 という所に移った。そこは、”おとぼけ”という食堂の前の木造二階屋で、一階は夜だけ飲屋(バァー)という建物の二階で、とにかく狭くてうす暗い部屋であった。が、しかし、それが出版労協の最初の独立事務所であった。
 この事務所に移ってから、ようやく書記さんも増員ができるようになり、神保町事務所に入った書記さんをあげれば、分部、小熊、鶴見、鈴木、大島(現相川和子)さんということになる。そして、1965年12月に駿河台の労連事務所に移るまでの間、神保町2の2が労協本部事務所であった。
 マスコミ共闘の結成の準備も、家永教科書裁判訴訟の相談や決断も、うす暗い事務所の電球の下で行われたことを私は忘れられない想い出として抱きしめている。

◎第1回出版研究集会
 マスコミ共闘の発足した1963年という年は、出版労協にとって歴史的な特記すべき一年であったように私にはおもわれる。
 その一つは、第1回出版研究集会がはじめて実現したことであるといえよう。
 この年の3月には、民放労連も「第1回放送研究集会」を持ち、“民放労働者の特殊性”についてをテーマにして、放送のさまざまな問題を浮きぼりにしている。
 また、この年の5月には、日放労(NHK)もはじめて上田哲執行部によってNHKの内外へのタブーに挑戦して放送研究集会を行っている。
 そして、この面では先輩の新聞労連では、この年の10月に第7回新聞研究集会をひらいている。
 いずれも安保闘争後のきびしいマスコミ・文化状況の中での、各単産の実態認識と今後の在り方が大きな共通の課題となっていたといえよう。
 “いよいよまちにまった出版研究集会である。出版労協発足のときからの課題であったし、私の念願でもあった。
 いままで何回かやろうとして実現できなかった。が、その要因の一つは、出版内容の評価の違いであるようにおもう。出版研究集会が、そのまま、よい出版社悪い出版社に色分けされるのではないかという不安や恐れであるようにおもわれた。
 だから私は、出版内容の問題よりも、まず職場の実態や出版に関わる人たちのそれぞれの気持ちや考えを知りたいとおもうし、参加した人たちが自由に率直に声を出しあえれば、今回はそれでよいとおもう。”……前日の7月19日の私の日記の一部である。

 出版研究集会は、歴代担当中執がその努力をしながら実現できなかった課題であったが、今回橋本進中執によってはじめて実現の運びとなったものであった。それには、有能なスタッフと周到な準備が行われたことはいうまでもないが、一方では、新聞や放送などの研究集会が刺激となり、流れをつくったともいえるとおもう。
 橋本氏は集会の基調報告の中で、“なぜ出版研究集会をひらかねばならないか?”をのべ、出版界の流れについて、“今年の各社の年頭の辞を集めてみたら共通点が見えた。市場競争への突入!マスプロ・マスセールである”と問題提起を行い、そして、終わりのまとめでは、“出版経営者に定見なく、安易な方向で利益追求に走っていて、出版への志を失ってしまっている”と指摘し、今後はマスコミ他単産や日教組や国民文化会議やJCJなどとともに大きな視野の中で、出版を国民のものにするための運動にとりくんで行きたいと方向づけている。
 場所は明治大学、7月20日、21日の両日にわたり参加者157名、海外視察から帰国したばかりのアジア・アフリカジャーナリスト会議の浅海一男(毎日新聞)氏のあいさつや森直也(講談社)氏の報告など含めて、大きな成功をおさめた。そして、出版労働者の運動の柱の一つである出版研究集会は、その後の出版対策の運動を含めて、橋本氏によって軌道に乗せることができたといえよう。
 そういう点でいえば、出版労協の機関紙を軌道にのせたのは豊田匡介氏であったし、また学習活動の土台をつくったのは、労働運動冬の時代の書記長であった熊谷達雄氏であったといえるように思う。

(c)1999年 Narahashi