◎長旅のあとがき
数えてみると51日間の長旅であった。当初この国際会議参加の話が出てきたとき組合はその対応にとまどった。もし会社に反対されたらと考えたからである。そして、年次有給休暇の使用をみとめてもらい、それを越える部分に対しては、組合出張という名目の欠勤扱いを申し入れた。
会社もいろいろな意見が出たようであった。社長から呼ばれ、社長にお会いして、国際会議や国際交流についての説明をすると、社長からは“国際会議の終わるまでは、組合出張での欠勤扱いとし、国際会議がすんだあとの帰国までの期間は会社の出張扱いとする”という内容の話が出された。
私はびっくりして「組合の団体行動なので、出張にしていただいても、何も会社の役に立つことはできないと思います」と申し上げた。社長は「君もいつまでも組合だけやっているわけではあるまい。君が仕事をするようになれば今回の外国旅行は君の経験を通して必ず会社の役に立つことになるものだよ」と笑いながら言われた。
そのとき私は、社長がソ連などの社会主義国にとくに強い関心を持っておられることを感じた。帰国した私は人事課から“出張日数だけで報告書はいらないそうです”と言われてがっかりした。大学ノートに三冊分日記的に私は記録を書き綴ってあった。
◎高橋武氏との出会い
印刷インターの旅で、私にとって最大の収穫は、全印総連の高橋武氏と友人になれたことであった。労懇時代から知っていたが、同志的な人間関係がつくられたのはこの旅の中であった。ノンポリ委員長の私はプロの労働運動家としての高橋氏の能力に強くひかれた。そして、あらゆる意味でそれ以後私にとって、つねによき友人であると同時に、労働運動の面では私の師であったといえよう。
私はその高橋氏を通して、総評の高野実氏や岩井章氏や紙パ労連の池ノ谷氏、土橋氏や全国金属の松尾さんなどいろいろな方を知り、いろいろな会合に出させてもらった。出版労協は総評に加盟していなかったが、私は加盟組合的な扱いを受けていたといえよう。
◎上田哲氏について
その頃、いま一人私の人生に大きな影響を与えた男がいる。上田哲氏である。
上田氏と初めて会ったのは、彼がNHKの社会部記者として、ポリオ生ワクチンの大キャンペーンを終わって、日放労(NHK労組)役員になった1961年秋の新宿でのマスコミ単産の交流懇親会の席であった。
彼は私に、NHKをあげてのポリオ(小児マヒ)キャンペーンの話をした。そして、世界ではじめてポリオを日本で根絶できるかも知れないのだと言い、松山善三脚本によって、映画化も進行している話も出た。そして、どうしてもポリオ根絶のために本を書きたいのだという。その出版の相談を受けたのが最初の出会いであった。
後に、松山善三氏による映画「一粒の麥なれど」は上映され好評であった。そのモデルは上田哲である。そして彼の書いた『根絶』も出版された。彼の念願の如く、いま日本ではポリオは根絶されたのであろうか。その社会部記者上田哲氏に私は限りなくひかれたのである。
◎マスコミ共闘の結成
1958年、出版労協発足後間もなく、文化放送の争議がきっかけとなって、民放労連、新聞労連、日放労、出版労協、映演総連、全電波などによる支援共闘会議が発足した。そしてそれに日教組や紙パ労連や全印総連が加わっていわゆる文化九単産共闘が結成された。
一方、紙パ労連と全印総連が中心になって、全印刷、東京印労、それに出版労協や新聞労連などによる紙印刷共闘も動きだした。
それに日本ジャーナリスト会議や、子どもを守る会や、国民文化会議などを含めて、それらが警職法闘争や60年安保や政暴法のたたかいなどを通して、いろいろな面で共闘して、いろいろな成果や実績をつくりだしていたといえると思う。
そして、そうした時代の流れの土台の上に結成発足したのがマスコミ関連労組共闘会議(略称マスコミ共闘)であったといえよう。
この大産業別共闘組織を考えた首謀者は、全印総連の高橋武氏であった。それに新聞労連の中井善勝委員長、日放労の上田哲委員長と私が賛成した。私にとっては、印刷インターでの旅の中で話し合った構想の一つであったから、すぐ賛成した。そして、民放労連と映演総連も賛成して、1963年11月9日午後2時、麺業会館(東京都千代田区神田神保町)で総会が行われた。
総会の議長は飯岡(出版)と石井(映演)の両氏であった。役員は次の通り。
議 長 : 上 田 哲 日放
副議長 : 高 橋 武 全印
同 : 中 村 紀 一 民放
同 : 楢 橋 国 武 出版
同 : 間 島 三樹夫 映演
事務局長: 古 野 雅 美 新聞
他に、各団体から幹事各一名と会計監査2名が選出された。この6単産の他に日活労組が加盟し、紙ぱ労連もオブザーバー加盟した。また広告労協も参加し、3年後に正式加盟した。
この日、結成総会から上田議長と私は時間の都合で中座して、労農クラブへ行き記者会見にのぞんだ。上田議長はマスコミ共闘15万人の結成発足を意欲的に発表した。
しかし、同日、三池炭鉱の坑内大爆発と東海道線鶴見駅での大事故の大惨事が二つかさなり、マスコミ共闘の発足記事は私の知る限り、翌日の新聞には一行も見当たらなかった。このことがなぜか私には痛く鮮明に記憶に残っている。
(c)1999年 Narahashi